序論

近年、バーチャルリアリティ(VR)技術は目覚ましい進展を遂げ、エンターテインメント分野に留まらず、医療、教育、産業トレーニングなど多岐にわたる領域でその応用が進んでいる。このような技術革新の波は、基礎科学研究、特に動物を用いた行動実験や神経科学研究の分野にも新たな可能性をもたらしている。VR技術を動物実験に応用することで、従来の手法では困難であった精密に制御された環境下での知覚や行動、学習、記憶といった高次脳機能のメカニズム解明が期待されている。

中でも、マウスを対象としたVR研究は、遺伝子改変技術の容易さや脳構造に関する豊富な知見といった利点から、特に注目を集めている。これらの研究は、マウスがVR環境を単なる視覚刺激としてではなく、ある種の「現実」として受け止め、それに応じた行動をとることを示唆しており、この事実は私たち人間にとって自明と思われがちな「リアリティとは何か」という根源的な問いを哲学的な次元で提起する。マウスがVR映像に対して示す反応は、それが単なるスクリーン上の模様ではなく、環境を構成する要素、あるいはそれに近い意味を持つ可能性を示唆している。マウスは映像を「画像」として処理するのではなく、それを通じて空間に対する具体的な行為を実行している可能性があるのだ。すなわち、マウスはVR映像を見て行動し、その行動がさらにVR映像を変化させるという連続的なフィードバックループを通じて、独自のリアリティを構築しているのではないかという仮説が生まれる。

本稿では、このようなマウスのVR体験におけるリアリティの構造について、特にヘッドマウントディスプレイ(HMD)を用いたVR環境に着目して考察を深める。HMDは、マウスの視野全体を覆うことで高い没入感を生み出し、より「現実」に近い体験を提供すると考えられている。このHMD環境下でマウスが経験するであろう特異な身体感覚を「確率的身体」という作業仮説のもとに捉え直し、その成立においてVR「映像」が果たす「媒介項」としての役割を明らかにすることを目的とする。具体的には、まずマウスのVR体験に関する既存の研究を概観し、HMD型VRシステムの特徴とマウスの知覚への影響を論じる。次に、マウスの主観的体験へのアプローチの困難性を踏まえつつ、素朴実在論や「不在ー現前」の身体性といった概念を手がかりに、マウスのリアリティ経験の特質を探る。さらに、機能主義的リアリティやJ.J.ギブソンのアフォーダンス理論といった理論的枠組みを用いて、マウスがVR環境を知覚し行為するメカニズムを分析する。これらの考察を踏まえ、本稿の中心的な仮説である「確率的身体」と、その成立を支える「媒介項としての映像」の概念を提示し、マウスのVR体験におけるリアリティ構築のダイナミズムを解明することを目指す。

第1章 マウスにおけるVR体験のリアリティ

本章では、まずマウスがVR環境に対して示す具体的な行動反応を紹介し、それがリアリティという問題系といかに接続されるかを示す。次に、マウスVR研究で用いられる主要なシステムを概観し、特に本稿で注目するHMD型VRシステムがマウスの知覚に与える影響について詳述する。

1.1. VR環境に対するマウスの行動反応

VR技術を用いた動物実験、特にマウスを対象とした研究は、動物が人工的な環境をどの程度「現実」として認識し、それに基づいて行動するかという興味深い問題を提起する。例えば、マウスがVR空間内で捕食者を模した黒い物体が迫ってくる映像を提示されると、現実世界で同様の脅威に遭遇した際に見られるような、飛び上がったり、その場で凍りついたり(フリーズ)、あるいは逃避したりといった防御行動を示すことが報告されている(De Franceschi et al., 2016; Dombeck & Reiser, 2012)。このような反応は、マウスにとってVR映像が単なる光の明滅や模様の変化として処理されているのではなく、現実の脅威対象と同様の意味価を持った対象として知覚され、それに対する適応的な行動が引き出されていることを示唆している。

さらに、空間学習課題においても、マウスはVR環境内で特定の場所にある報酬(例えば、仮想的な目印の先に設定された報酬ゾーン)を効率的に探索し、記憶することができる。例えば、球状のトレッドミルの上でマウスを歩かせ、その動きに応じて周囲のスクリーンに投影されたVR空間が変化するシステムでは、マウスは仮想空間内の特定のランドマークを目印にして報酬を得る場所を学習する(Harvey et al., 2009)。これは、マウスがVR環境の空間的配置を理解し、それを行動計画に利用していることを意味する。

これらの事実は、マウスがVR環境を、少なくともある側面においては、現実の環境と同様のルールが適用される「行為可能な空間」として受け止めていることを強く示唆する。重要なのは、マウスが反応している映像が、単なる視覚刺激にとどまらず、環境の構成要素、あるいはそれに近い意味を持つ可能性があるという点である。マウスは映像を「スクリーン上の画像」として処理しているのではなく、それを通じて空間に対する行為を実行している可能性がある。そして、マウスはVR映像を見て、行動し、その行動がさらにVR映像を変化させるという連続的なループを通じて、リアリティを構築していくのではないか、という問いが生まれる。この問いは、単に動物の知覚能力の範囲を明らかにすることに留まらず、「リアリティとは何か」「現実感はどのようにして生じるのか」といった、より根源的な認識論的・存在論的問題へと我々を誘うのである。

1.2. マウスVRシステムの概要

マウスを用いたVR研究で用いられるシステムは、その目的や技術的背景に応じて多様であるが、主要なものとして「球状トレッドミルと周囲ディスプレイ型」と「小型HMD(ヘッドマウントディスプレイ)型」の2つが挙げられる。

球状トレッドミルと周囲ディスプレイ型

このタイプは、マウスの頭部を固定し、空気で浮かせた球状のトレッドミルの上でマウスを自由に歩行させる。マウスの足の動き(トレッドミルの回転)を光学センサーなどで検出し、その情報に基づいてマウスの周囲に配置された複数のモニターや曲面スクリーンに投影されるVR映像をリアルタイムに更新する。この方式の利点は、マウスの自然な歩行運動を許容しつつ、広視野の視覚刺激を提示できる点にある。頭部固定により、カルシウムイメージングや電気生理学的手法を用いた神経活動計測との組み合わせも比較的容易である。多くの空間学習やナビゲーション課題の研究で用いられてきた(Dombeck et al., 2007; Harvey et al., 2009)。例えば、マウスが特定のタスク(例:「fading beacon」タスク、報酬が徐々に見えなくなる目印の近くにある)を遂行する様子を記録した映像では、マウスがトレッドミル上で巧みに動き回り、仮想空間内の情報を頼りに報酬を獲得しようとする行動が観察される。

小型HMD(ヘッドマウントディスプレイ)型

近年注目されているのが、マウスの頭部に直接装着する小型のHMDを用いるシステムである。これは、マウスの眼前に超小型のディスプレイを配置し、マウスの頭部の動きに合わせてVR映像を提示する。この方式の最大の利点は、マウスの視野全体をVR映像で覆うことができ、外部環境からの視覚情報を完全に遮断することで、極めて高い没入感を実現できる点にある。また、頭部固定型に比べて、より自然な頭部の動きを許容できる場合もある(ただし、多くのHMD型システムでも行動計測や神経活動計測のために頭部固定が併用されることが多い)。例えば、Isaacsonらによって開発された「MouseGoggles」(Isaacson et al., 2025)やPinkeらによるiMRSIVシステム(Pinke et al., 2023)、そしてJudákらによる「Moculus」(Judák et al., 2025)などが代表的である。これらのシステムは、従来のモニターベースのVRシステムと比較して、マウスがより迅速に課題に取り組むことや、より現実世界に近い行動反応を示すことが報告されており、マウスにより強い「リアリティ」を与えていると考えられる。

本研究では、特にこの小型HMD型VRシステムに焦点を当てる。その理由は、HMDが提供する全視野の視覚刺激と外部環境からの遮断が、マウスのVR体験におけるリアリティの質を考察する上で、より本質的な問いを突きつけると考えられるからである。

1.3. HMD型VRの特性とマウスの知覚

HMD型VRシステムは、マウスの知覚、特にリアリティ感覚に大きな影響を与えるいくつかの重要な特性を持つ。

第一に、全視野の視覚刺激である。マウス、特に齧歯類にとって、頭上部の視覚領域は捕食者からの脅威を常に監視するために極めて重要であり、この領域を両眼で重複して見ることで効果的な警戒を可能にしている。HMDは、この重要な視野を含むマウスのほぼ全視野をVR映像で覆うことができる。PinkeらのiMRSIVシステムを用いた仮想直線トラック課題の研究では、従来のモニターベースのVRシステムと比較して、マウスがより迅速に課題に取り組むことが示されている(Pinke et al., 2023)。研究者らは、この現象について、視野全体がVR映像で照らされることで、実験室のケージや壁といった現実世界の矛盾するフレーム(視覚的手がかり)が視認できなくなるためであると考察している。つまり、HMDは現実世界の視覚情報を効果的にマスキングし、VR環境への没入を促進するのである。