皆さんはパソコンで作業をしていて、ふとカーソルを見失うことがありますか? 画面の中で矢印を探して、マウスを動かして、「あ、いたいた!」と見つける瞬間、私たちは確かにカーソルを見つけています。しかし、単に画面上のイメージを見つけた以上の安心感があるような気がします。カーソルとはいったい何なのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=ToK0WPETxns&t=49s
マウスとカーソルは、1968年にダグラス・エンゲルバートが「Mother of All Demos」とのちに呼ばれるようになったデモを世界に示しました。手元の小さな箱を動かすと、画面の中の矢印が動く。手の物理的な動きが、情報空間の動きに変換されていきます。テクノロジーライターのマシュー・パンザリーノは、この瞬間をこう書いています。
https://youtu.be/yJDv-zdhzMY?t=1897
しかしショーの主役は、マウスカーソルを構成する小さなピクセルの線だった。それは「ホミネム・イン・マキナ」——機械の中の人間——だったのだ。
https://techcrunch.com/2020/05/06/how-apple-reinvented-the-cursor-for-ipad/
マシンの中に人間の動きが埋め込まれた。カーソルは、情報空間の中に「私がいる場所」を示す点です。画面のどこに矢印があるか——それが、そのまま「いま私がいる場所」になる。渡邊恵太は、この感覚の正体を「動きの連動」に見ています。
動きの連動によって自己への帰属感が立ち上がってくる。つまり、私たちは普段カーソルを意識しないで対象を意識しているというカーソルの「透明性」の正体は、「動きの連動」がもたらした自己感、自己帰属の結果であったと言えるのではないだろうか。
渡邊恵太『融けるデザイン』、p. 108
手がマウスを動かすと、カーソルが動く。この物理的な動きと情報空間の動きとの連動が、「ここにいるのは私だ」という帰属感を立ち上げます。カーソルに自分を重ね合わせることで、私たちは情報空間に入り込む。パンザリーノが書いた「機械の中の人間」とは、この連動によって情報空間の中に立ち上がった「自己」のことです。
そして、連動によって立ち上がった自己を確定するのが、クリックです。クリックは離散的な「点」です。ボタンを押す瞬間に、時間に明確な区切りが生まれます。「私が」ボタンを押したのであって、それは「私の」行為として感じることができる。連動が「ここにいる私」を立ち上げ、クリックが「いま決めた私」を刻む。動きの連動が自己を生み、クリックが自己を確定する——この二段構えが、カーソル時代の「自己」の構造です。
私はディスプレイを見ながらコンピュータと作業をしているときに、ある「思考」が生じ、マウスが動かされて、ある「決定」が下されて、マウスのボタンが押されます。指がボタンを離した瞬間をトリガーにして、コンピュータが処理を始め、結果をディスプレイに表示する。私のターン、コンピュータのターン。交代制です。
このターン制のインタラクションでは、「私が」操作しているという感覚が明確です。カーソルという点に自己を重ね合わせ、クリックという「いま・ここ」が刻み続けられます。私とコンピュータとのあいだで、行為と認知が回っているけれど、私とコンピュータが交代しながら回っている。「自己」が行為の起点にある状態です。
2007年、iPhoneが登場しました。iPhoneにはカーソルがありません。カーソルという「移行先」を失ったとき、「自己」はどこへ行ったのでしょうか。
渡邊恵太は、iPhoneにおける指の役割について次のように指摘しています。
iPhoneの場合、カーソルがない。だから指がカーソルに思うかもしれない。しかし指はどちらかといえばマウスの位置づけで、カーソルではない。ではカーソルの代わりは何か。ここで重要なのは、カーソルということではなく、iPhoneでパソコンのカーソル並に身体の動きに連動している部分は何かということだ。
それは「画面全体」である。たとえばiPhoneのホーム画面は指に追従し、アプリケーションリストが左右に移動する。ウェブブラウザでは画面全体が指に追従しスクロールする。カーソルはないが、カーソルと同じレベルでiPhoneの画面は非常になめらかに連動している。この連動が画面の中と指を接続し、自己帰属感が生起して身体の一部となり、ハイデガー的に言えば、道具的存在になるのだ。
渡邊恵太『融けるデザイン』、p. 113