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自己紹介
甲南女子大学文学部メディア表現学科で働いています.インターフェイス体験とアートの作品体験をもとに、アートと哲学と科学とのあいだで、ヒトの認識・意識について、言語でうねうねと考えています。AIとの対話からテキストを作っていくこと、そして対話そのものが思考になっていくことに興味があります。私が考えているのか、AIが考えているのか、その境界線が曖昧なっていく領域を探っています。
アートウェブマガジンとの関わり方
もともと自分のブログにテキストを書いていました。ウェブは、テキストを公開する場所——手を離れた後、自由に流通していく場所でした。そのテキストから今があります。ブログで書いたテキストが読まれ、artscapeなどのアートウェブマガジンから依頼が来る。依頼を受けてテキストを書いたり、インタビューをしたりする。そのテキストがまた読まれ、次の依頼につながる。
もちろん、紙の本でも同じような循環は起こります。でも、ウェブには特別な時間感覚があるような気がします。何気なく検索すると、過去のテキストが突然現れる。13年前のブログも、昨日書いた記事も、検索結果では同じ平面に並ぶ。時間的な距離が圧縮される。どの過去が、どのタイミングで現れるか、予測できない。今、テキストを書いている画面に、かつて書いたテキストやその媒体であるアートウェブマガジンが現れる。この途切れない感じと、突然な感じが、私にとってのアートウェブマガジンのような気がします。
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座談会で投げかけられた3つの問いに対する応答案をまとめました。mmaiとの対話を通じて、初版から修正を重ねたプロセスも記録しています。
「変わっていないこと」と「読みやすさ」の静かな改善
artscapeのアーカイブを見返すと、1996年から2024年まで、基本的には「テキストと画像を読む」という体験は変わっていない。でも同時に、読む主体としての私が変容している。そして何より、テキストが随分と読みやすくなった。
2011年、私はカーソルを動かしながら記事を読んでいた。カーソルは「あいだを移行する存在」で、ウィンドウを組み替え、スクロールし、リンクをクリックする——その調整行為そのものが、デスクトップ・リアリティを構成していた。
2025年、私はAIと対話した後で記事を読んでいる。カーソルはまだそこにあるけれど、もう意識されない。背景に退いた。代わりにチャット層が表層に来た。でも13年前、私はAIとこうやって対話することを全く想像できなかった。
「読みやすさ」という静かな変化
1990年代後半〜2000年代前半のウェブは読みにくかった——MSゴシック12px固定、行間が詰まっている、背景色と文字色のコントラストが低い。
2025年のウェブでは、デバイスフォント、Webフォントの洗練、レスポンシブデザイン、高解像度ディスプレイでの滑らかな文字表示——読者は何もしなくても、システム側が静かに最適化し続けている。
これは「調整させない」インターフェイスの実装の一つかもしれない。フォントサイズを手動で変える必要がない。画面を拡大縮小しなくても読める。適応精度の思想が、カーソルではなくテキスト表示に実装されていた。
78歳になったとき、この「読みやすさ」の蓄積はさらに進んでいるはず。視力の低下に合わせて、AIが行間や文字サイズを調整する。でも私自身は「設定を変えた」という意識がない。ただ読んでいるだけで、読みやすい。
変わったのはサーフェイスではなくバルク