本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます。私は佐藤さんとユーフラテスのお仕事を講義で触れて以来、展覧会やご著書にずっと触れてきました。今日こうしてお話を伺えることを本当に楽しみにしておりました。
私はインターフェイス研究者として、人間とメディアの新しい関係性を探求しています。その中で、佐藤さんの作品群は、既存のインターフェイスの概念を根底から揺さぶる体験を提供してくれました。
今回は、デザイナー、映像作家、教育者という多面的な活動を通じて、常に人間の認知と表現の境界を探求されてきた佐藤さんに、その思考の根底にあるものを伺いたいと思います。
私はインターフェイス研究者として、「枠」という存在を、情報や世界を切り出す装置として捉えています。特に佐藤さんの初期マンガ作品では、ウィンドウ=別世界の枠がGUIの一般化以前に登場しており、驚きを覚えました。その後も《フレーミー》や『新しい分かり方』など、さまざまな場面で「枠」は繰り返し表れています。
佐藤さんにとって、「枠」は初期から現在に至るまで、どのような表現的・概念的な役割を担っているのでしょうか?
「たまらない」・形として好き・枠が好き。周期律表がかっこいい。要素還元の結果として、枠。どんな表でもない。意味を持つのはあと。藤幡正樹。デザインってなんですか。整理整頓。
『四国はどこまで入れ替え可能か』の「Let`s 錯覚!」で透明シートをめくって、左ページで大きく見えていた円が右ページの小さい円にピッタリあったときに、とてもゾワっとしました。やばい体験をしてしまったという感じです。錯覚をこのように体験する方法があったのかという感じでした。また、midnight animationを体験したときも、ページをめくる行為なしで、目の前のイメージが入れ替わり、アニメーションが生成されるのをみて、こちらも認知が揺さぶられる感じがありました。
このような体験を通して、佐藤さんが「ページをめくる」ことにどのような意味を見出されているのかを伺いたいです。
自分がやっている。鑑賞者がやっていることが
初期映画作品『kino』の「ポイント」では、視覚的には単なる白い点という極限的な制約の中で、音響によってハエから宇宙的存在まで、無限の解釈の可能性を開いています。「世界最小の演技者」という表現も印象的でした。また、 『差分』のような作品では、2つの画像という最小限の要素で、見る人の想像力を引き出されています。
この『制約することで自由を生む』という逆説的な構造は、意識的に設計されているのでしょうか?
歌もだめ。踊りもダメ。
『差分』によって露見した人間特有の認知としてあげられている「人間が差分によって生み出した「動き」には、途中のイメージが存在しない。」ということは、『差分』だけで問題なっているのではなく、『指を置く』で「自分事として扱う」という問題になり、『あたらしい分かり方」では「どちらを選んだのかは分からないが、どちらかを選んだことははっきりしている」という「はっきりとした中途半端な分かり方」とされ、映画「どちらを」では「双対性」という数理概念を映像化する問題として出てきていると、私は感じました。