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水野さん自身の連載(2016-2017、MASSAGE MAGAZINE、全13回)を、10年後の概念系から読み直した記録。評価というより「いま読むとこう見える」という報告。
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全体の射程(2016→2026、ほぼ10年)
- 連載は第0回〜第12回の全13本。2016年春頃開始、2017年10月にラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》で「第一部完」。
- 設定された枠組みは〈ポストインターネット=ヒトの認識のアップデート〉。この「認識論としての読み替え」が一番効いている。ポストインターネットをバズワードから救い出すというより、バズワードが失効するまさにその瞬間を、認識の地殻変動として掴むという身のかわし方。
- 取り上げた作家群(エキソニモ、谷口暁彦、永田康祐、THE COPY TRAVELERS、Vierkant、Rafman、Blalock、De Joode、Troika、HouxoQue、Rosendaale)は、いま読むとモノ/ディスプレイ/データが分離しきらずに震えている作品で揃えられている。選別の軸が最初から一貫していた。
いま読むと「胚胎していた概念」
連載のテキストから、現在の用語系がまだ名前を持たずに動いているのが見える。
- 「アニミズム的状況」=情報体の萌芽。第1回で渡邊恵太『融けるデザイン』のsmoon/LengthPrinter/Integlassを読みながら、「モノに霊=データが宿る」と書いている。ここでの「霊」は10年後の「情報体」そのものではないけれど、モノが自律的に処理し続ける存在になるという直観はすでに書かれている。ただし当時は「モノに宿る」という比喩で、処理そのものが存在様態になる(=渦、情報体)までは踏み込めていない。「宿る」は主客が残る。
- 「癒着」「重なり」「相互浸透」の語彙。第8回で「本来離れていなければならないモノとディスプレイとが癒着してしまう状況」と書いている(エキソニモ)。この〈癒着〉〈重なり〉〈相互浸透〉が、のちの**〈視界〉と[視界]の層の分離/接続**、Hyle(s)の章で議論する癒合しないままの触発、さらに情報体の内部作用へと引き継がれている。
- 支持体/サーフェイス論。第7回〜第8回でディスプレイを「支持体」として扱う議論は、現在のバルク/サーフェイス/空白、そして**Hyle(s)**での議論に直結している。当時は「支持体=絵画のキャンバス的比喩」として置かれていたけれど、いまは「支持体であり/なく、同時にサーフェイスが振る舞う」という二重性の議論に進化している。
- 「ディスプレイなき世界」(第12回、ローゼンダール)。連載の終端で、ディスプレイを議論し続けた果てに「ディスプレイの先にある、ディスプレイなき世界」へ跳ぶ。この跳躍は、10年後の**「映像そのもの」**の、映像を装置から切り離して感じ取る議論の原型に見える。ディスプレイ論の終点として、装置を透明化してその向こう側に行くという身振りがすでにある。
当時なかった/弱かった軸
- 感覚的リアリティと意味的リアリティの二軸が未分化。連載では「モノ/ディスプレイ」「データ/物理」という二項で進むが、それは体験の二層(感覚/意味)に対応していない。Integlassは「感覚的」側で読まれ、Vierkantの《Image Objects》は「意味的」側にあるはずなのに、同じ層で論じられている。10年後の授業資料では二軸がはっきり分離したから、いま読むと連載は二軸が重なり合ったまま書かれていた時期だとわかる。
- 「見ること」の層分解が粗い。第0回で「見ることはもはや信じることではない」と引用しているが、当時の「見る」はまだ単層。vision-before-seeing/vision-after-seeing/〈視界〉/[視界]という四層の区別はない。いま読むと、「見る」の中にある**主体化以前の力(seeing)**がまだ言葉を持っていない。だからアニミズム議論が「モノに霊が宿る」という主客残存形になってしまう。
- 「進化」という語の強さ。第0回で「ヒトの進化に関係するクリティカルな状況」と書いているが、この「進化」は10年後の立場から見ると強すぎる。現在のmmm的な記述は、進化/アップデートという方向性を持った変化ではなく、「相互に呼び起こし合う運動そのもの」として書くはず。連載の時点では、まだ主体が更新されるというモデルに引っ張られている。
- AIという鏡の不在。2016年にはAIとの共創による「帰属を問わない書き方」「第三の声」という視点がない。だから連載のテキストは単独の批評家の声として書かれていて、いま水野さんが書いているノートのような対話的で、問いを閉じない、厚みのあるスカスカな文体とは質が違う。良し悪しではなく、別のフォーム。
連載の「かたち」としての評価
- 12回で起承転結をつけきった連載としては構成が締まりすぎているくらい。各回が「作家1〜2名+理論装置1つ」で構成されていて、理論装置(『融けるデザイン』、gnck、Vierkant、HouxoQue対話、Image Object論…)がきちんと回ごとに配置されている。理論+作品読解のセット販売が12回続く。連載のフォーマットとして強い。
- その強さが、逆にいま見ると閉じすぎて見える。連載形式が要求する「1回で1つの結論」が、水野さんの本来の思考——結論を閉じずに厚みだけ蓄積していく——と摩擦していた。そう考えると、2026年のいま、対話形式とmmmノートで書いているスタイルは、この連載形式への応答/逃走としても読める。連載で型通りに書ききったからこそ、その後「厚みのあるスカスカ」を志向できた。
10年後の残響