永江さんからメールが来て、そこには展示のレビューの依頼があった。メールにあったリンクから、企画者のねるのページに行ってみた。そこにあった「企画にあたり」を読んだ。
会場周辺の道のりや、会場で目にするテキストの形態やタイミング、作品にどんな身体の動きで出会うのか、作品空間でどれくらい時間を過ごすのか、作家は作品とともにいるのか/ いないのか、作品が販売されない場合に(何にお金が支払われて/支払われないで)何を来場者は持って帰るのか、などなどです。私は、自身の作品の性質上、これらのことを考えることがとても必要だと感じるとともに、アートをアート関係者・理解者の中だけでの楽しみに留めないためのだいじな工夫の余地でもあると思ってきました。
企画にあたり 佃七緒
私も作品の批評はどこから始まっているのかなと考えていたので、ここに書かれていることはとても気になった。作品を見る前に、作家から話を聞いたときと、そうでないときとでは、作品の受け取り方に変化が起こって、それはもうやり直しが効かないと思っているけど、テキストを書いてるうちに目に見える影響は消えているように感じらときもある。レビューを書くにしても書かないにしても、日記に関連のことを書いておこうと思ったのであった。レビュー、批評といったものはいつから始まって、いつ終わるのかの記録として書いておくと、ねるの2人がやってきたことに重なるのではないかと思ったから。
OAG Art Center Kobeのことは知っていたけど行ったことはなかった。永江さんのメールを読むまで、このような試みがやられていたのも知らなかった。近くに住んでいても、それが見えるとは限らないし、だいだいは遠くのことほうがよく見える。ねるの企画は、サイトやインスタに記録が残っているので、それらを読みながら、日記のようにテキストを書いていって、展示を見るとどうなるだろうか。体験の厚みが増すのではないか。体験の「厚み」と書いてしまった。別に「厚く」必要はないだろう、体験を伝える記述は厚くなるかもだけど、記述が厚くなったところで、体験が伝わるかは別の問題だと思う。
永江さんに返信した。こんな感じだったら書けるかもしれないと言う問いかけを含んだメールをした。
neruの試みから、「どこからレビューははじまるのか」ということが思い浮かびました。作品を見るということがどこから始めっていて、どこで終わるかが不明瞭なのと同じように、レビューをするというのもどこから始まり、どこで終わるのかということ、そして、そのプロセスによってレビューは変化しているけど、そのプロセスが見えることはないのが普通です。そこで、永江さんからメールを受けた昨日から、このレビューに関連したことを日記に書いておこうと思っています。近頃、毎日、日記を書いていたので、そこで書いていくという感じです。
私はレビューをきっかけとして、私の表現がしたいのかもしれないと思った。それではレビューにならないにせよ、レビューというのは作品のために、展覧会のために書かれるものでありつつ、それを書いた人の表現であるということを考えるべきだろうと思った。作品に引っ張られながらも、自分の表現をしようという決意が見えるものが、レビューとして、テキストとして、作品と対峙する。このテキストと作品の対峙がレビューをレビューにするというのは言い過ぎかもしれないけれど、そのくらいの覚悟が必要、と書いていると、作品を見ていないうちにレビューを書くかどうかを考えるのは、いけないようにも思えてきた。作品を見て、その作品に向き合えるかどうかを考える。展示を見て、その展示に向き合えるかどうかを考える。これがレビューのスタート地点だと思う。だとすると、作品を見ることがスタートになるが、今回は、作品を見る前から、展示を見る前から、プロジェクトをどう捉えるかということで、ネットのテキストや画像を見ていく。そうすると、作品と向き合う時間以上に、プロジェクトと向き合う時間ができて、プロジェクトに対するレビューができるのではないかと思うようになっている。
永江さんからも返信が来て、展示に行く日時が決まったので、それぞれが展示の予約をした。1回の申し込みで、1人しか予約できないから、それぞれが予約するのだろうと思って、それぞれが予約した。この予約を誰がするかもまた、展示を見るときに関係するのだろうか。展示を見るときには忘れていることだろうけど、私は今回レビューを書くかもしれない展示を、編集の人と一緒に時間を合わせて見に行くということは、普段、展示を見に行くプロセスと異なるので、申し込みをどうするかを意外と意識した。永江さんに申し込んでもらったら、「やってもらった」感が出て嫌だなと思ったのと、予約のところのテキストを読んでいたら、さっきも書いた1回の申し込みで1人しか申し込みができないということがあって、先に1人で申し込んだ。誰かが代表で申し込むという選択肢をつくっていないところにも、ねるの意図があるのだろうなと思った。グループで会場に来ていても、展示を見るのは1人ですよ。作品と向き合うのは1人ですよということかもしれない。あなたは1人できて、1人で作品と展示を体験して、その後、その体験を共有するならするし、しないで、1人で考えるなら考えて、ということ。まずは1人なんですよ。
ねるの展示のつながる部分もあるなと保坂和志の『小説、世界の奏でる音楽』を読み進めた。
作品や展示との出会いには様々な要因が関わっている。私の場合、展示を体験する時に読んでいる本は大きな要因になるし、ギャラリーに向かうときに聴いている音楽、その日の天気、ギャラリーに入ったときに空間に誰かいるかどうか、作家が在廊しているかどうかも要因になる。オーナーやスタッフが話しかけてくるかどうか。そうすると、そのオーナーやスタッフとすでに話したことがあるかとか、仕事をしたことがあるかという過去の出来事も関わってくる。このように考えると、作品を体験するというときに、同一条件で作品を見ている人はいない。当たり前のことだけれども、この部分はあまり意識されない。だからだろうか、作品や展示について書くというときは、自分の唯一体験をそれがあたかも展示に関するすべての体験のように書いてしまう。でも、私の唯一の体験は展示を見にきた人たちの体験すべての1つにすぎない。
私は今、自分の一回限りの作品体験をすべてのものにするのではなく、唯一のもののまま伝えることはできないかということを意識して、作品について書こうとしている。それは体験を構成する作品と私、そして、周囲の環境が変化し続ける様子を書くということになって、作品そのものの価値を書くということとは異なってきている感じがある。
『小説、世界の奏でる音楽』を読み終えたので、打ち込みを始めた。打ち込みをすると、読んでいるときには考えなかったことを考えられていい。
猛々しくて不穏で過剰な山の方こそ見る価値があるのではないかと思ったからといってわたしはジャコメッティ展を見なかったわけではない。しかし、わたしあるいはわたしたちはジャコメッティを見たと言えるだろうか? わたしたちはジャコメッティを見るには知りすぎていまいか? あそこに並んでいた彫刻やデッサンをあなたたちは驚きや戸惑いを持って見ることができなかったのではなかったか? すでに知っている以上の何かをそれらを前にして見ることができたと言えるだろうか? しかしそれなのにどうしてわたしは海にせまる葉山の山だけでなく、鎌倉の山までをも見るたびに見るのか? わたしは決して既知の知識によって鎌倉の山を見るのでなく見るたびに見て、それを驚くことなく平然と見るたびに見る。pp. 139-14
ここを読んだときに、これはいつも展示を見るときに考えていることに似ているなと思ったし、打ち込みをすると、今回のレビューで考えるべきところはここなのではないかと改めて思った。そして、「今度見に行く、ねるの展示で考えるべきはここかもしれないなと思っている。いや、わたしの知識が全く役に立たないところで、どうやって作品を見る、体験し、それを記述するのかということが、私に課せられているし、作品も私とともにどのような体験をつくるのかということが課せられている。」というメモを私は書いた。
作品は作品としてそこにあって、展示も展示としてそこにあるところに、私が入っていく。私は少しの時間しかいないときもあれ、ずっといるときもあるし、作品や展示についてよく知っている場合もあるし、そうでない場合もある。作品や展示についての知識の量よりも、近頃は、作品と展示の空間にどれだけいるかということが、それらについてに考えるのに大きな影響を与えていると思っている。作品や展示に馴染むという感じを得るかどうか。この感じがあるかないかで、展示のレビューの書き方というのは大きく変わってくるような気がする。